しんちゃんの老いじたく日記

昭和30年生まれ。愛媛県伊予郡松前町出身の元地方公務員です。

未来の担い手は女性

日経新聞「経済教室」で連載が続いていた「平成の終わりに」は、

6回目の今日がシリーズの最終回でした。。

連載の最後に執筆されたのは、「日はまた沈む」の著者、

ビル・エモット英エコノミスト誌元編集長で、

論評は『嘆かわしい20年に決別を』というタイトルでした。


まず、エモットさんは、「平成の幕開けと90~92年のバブル崩壊から

30年近い年月が過ぎたいま振り返ると、

この時期には日本経済の現実を物語る4つの特徴が際立っていたことに気づく」

と述べられていました。


「日本経済の現実」とは、最も高かった国民1人当たりの国内総生産GDP)伸び率が、

90年以降の30年間は先進6カ国中5位に転落したことを指していて、

現実を物語る4つの特徴のうち3つについては、次のような内容でした。

 ・第1の特徴は、日本の経済運営の担い手たち、すなわち霞が関自民党、大企業や経団連が、

  日本経済に何が起きたのかをなかなか理解せず、

  経済の現実とバブル崩壊の深刻さを認めたがらなかったこと。

 ・第2の特徴は、若かった日本の人口が少子高齢化したこと。

 ・第3の特徴は、グローバル競争と技術変革の時代に経済を安定させ、

  さらには立ち直らせるためにはそれなりの犠牲や調整が必要になるが、

  日本の場合、犠牲のほとんどをごく普通の就労者が引き受けたこと。


そして、最後の4つ目については、次のように述べられていました。

『これが「失われた20年」と呼ばれる時期の説明だが、

 筆者としては「防げたはずの嘆かわしい20年」と言うべきだと感じる。

 だがこの時期にある重要な現象が出てきたことを見落としてはならない。

 その現象こそが平成の第4の特徴であり、次の時代にとって大きなプラスとなるはずだ。

 その第4の特徴とは、突如として大勢の若い女性が、

 それまで一般的な進学先だった短大ではなく、家族に奨励もしくは容認されて、

 四年制大学へ進学し始めたことだ。  ~ (中略) ~

 日本は政界、実業界などで高い地位に就く女性が先進国の中で圧倒的に少なく、

 女性の社会進出が遅れている国として悪名高い。

 だが日本では年功序列制が幅を利かせていることからすれば、

 他の先進国に後れを取っているのは、

 80年代の大学進学率の男女差が反映されていると考えるべきだろう。

 ちょうどその頃に大学に進学した世代が、現在の日本で主導的な地位を占めているからだ。

 だが今後は00年以降に大学を卒業した女性が40~50代に入るので、

 重要な地位に就く女性が増えると考えられる。

 平成の日本を動かしていたのはおおむね男性だったが、

 未来の担い手の多くは女性になるだろう。』


エモットさんによると、日本での80年代の女性の四年制大学進学率は

12~15%(男子は34~40%)だったのが、

直近では女性の四年制大学進学率は50%に達し、男性との差は数%に縮小したそうです。


私が地元の地方自治体に入庁したのは、昭和55年(1980年)でした。

入庁時の同期約90人(大卒・行政事務)のうち、女性はたったの1人でしたが、

今では、約3人に1人が女性になっていて、

その女性の方々は、皆とても優秀な職員だと聞き及んでいます。

おそらく、将来的には、エモットさんが指摘されているように、

管理職のほとんどを女性が占める時代がやってくるのではないかと思っています。


ところで、未来の担い手の女性の中に、わが娘と孫娘は入ることはできるのでしょうか?

神のみぞ知る未来だとは思いつつ、二人のこれからの活躍を期待したいと思います。

世界共通の不文律

今日10日の日経新聞「大機小機」に、

よく耳にする「ノブレス・オブリージュ」という言葉について、

次のようなことが書かれていました。


『高い地位には世界共通に無私の行動を促す不文律が伴う。

 西欧では「奉仕と犠牲」や「ノブレス・オブリージュ(高貴なる義務)」。

 日本でも尊敬される徳目の「無私」「陰徳」「報恩」などはこれらと共通する面がある。

 企業トップが内部告発で失脚する例は珍しくないが、

 いずれもこうした不文律に抵触した場合が多い。

 とりわけ、日本を代表する大企業のトップにはこれらの徳目が必須の要件として期待されている。

 この不文律は普段は機能しないが、

 ひとたび「いくら何でもそこまでは」という範囲を超えると厳然として機能する。

 こう考えると、ゴーン元会長の事件の本質は法的議論とは別にあり、

 フランスのことわざを語源とするノブレス・オブリージュから次第に逸脱した結果と思われる。

   ~ (中略) ~

 絶えず激変する経営環境の中、長い目では、無私の精神と人間的魅力を備えた経営トップが

 その都度何らかのイノベーションを起こした企業が繁栄を続けている。

 こうした特徴を備えた人材が経営トップというタスキをつなぎ、

 そのトップの下で全社員が一丸となることが、企業の存続には不可欠である。』


う~む、なるほど‥‥。

ノブレス・オブリージュ」という言葉は、フランスのことわざを語源とするのですね。

ゴーンさんには、この徳目が欠けていたということなのでしょうか‥‥。とても残念です。


この記事を読んで思い出したのが、「カントリージェントルマン」という言葉です。

『座右の古典』(鎌田浩毅著:東洋経済新報社)には、

この言葉について、鎌田教授の次のような解説がありました。

『平時は田舎でコツコツと仕事をしているが、

 国家に急あらば馳せ参じて社会のために能力を発揮する。そして使命が終われば、

 また田舎に戻って静かに暮らす本物の紳士のことだ。』


う~む‥‥。(沈黙) どちらも私には縁遠い徳目です。

座右の古典 ―賢者の言葉に人生が変わる

座右の古典 ―賢者の言葉に人生が変わる

ひとり、大人に

私の近所の家に、小学校低学年の男の子がいます。

その彼と私とは、毎朝、家を出る時刻がほぼ同じです。


ところが、彼は学校に行くのがとても辛そうで、

家を出る際に、めそめそと泣いていることが度々あります。

今朝も、路地まで見送りに出たお母さんを、何度も何度も振り向きながら、

ためらうようにして集団登校の集合場所まで向かって行きました。

彼を見送るお母さんも心配そうな表情で、見ている私も少し悲しくなります。


そんなに学校に行くのが辛いのかなか‥?

ひょっとして、学校で誰かにいじめられているのかな‥?

「オジサンも、仕事に行くのがしんどい時が度々あるんだよ。」と、

その彼に声を掛けたい気持ちになります。

きっと、彼は、子どもの頃の私と同じく甘えん坊で、

家を出るときは、優しいお母さんと別れるのが辛いけれど、

学校に行けば、きっと友達と仲良く遊んでいるのではないか、と思ったりもしました。


そんなことを考えていると、

『読売新聞朝刊一面コラム 竹内政明の「編集手帳」傑作選』(中公新書ラクレ)にあった、

「いじめ」と題するコラムの、次のようなフレーズを思い出しました。


谷川俊太郎さんに「成人の日に」と題された詩がある。

 〈成人とは人に成ること もしそうなら/私たちはみな日々成人の日を生きている〉

 中学生や高校生も毎日が成人の日だろう。大人になるための条件を挙げて、詩は続く。

 〈他人のうちに自分と同じ美しさをみとめ/自分のうちに他人と同じ醜さをみとめ‥‥〉

 と、その一節にある。    ~ (中略) ~ 

 ひとの心を傷つけて喜ぶ心さびしき者に聞く耳はなかろうから、 中傷された君に言う。

 蠅(はえ)たちの集まりでは、 蝶(ちょう)も「キモイ」と陰口をたたかれるだろう。

 心ない者たちのうちにも自分と同じ美しさを探しつつ、君はひとり、 大人になればいい。』


決してないとは思うけれど、もし、学校でいじめに遭っているとしたら、

この言葉のように、「君もひとり、大人になればいい。」‥‥。オジサンはそう思っています。

健全な民主主義を考える

今日8日の朝日新聞デジタル版に掲載された

政治学者、ダニエル・ジブラットさんへの新春インタビュー記事が勉強になりました。

ジブラットさんは、「民主主義の死に方」(新潮社)の著者で、

記事のタイトルは「民主主義、生かすために」でした。


まず、ジブラットさんは、米国民主主義が過去200年以上存在しなかったような危機に直面しているとして、

具体的には次の3つの脅威を示されていました。

①民主主義的なルールに従おうとしない大統領がホワイトハウスにいること、

②政治的な二極化、分裂が深まっていること、③経済的な不平等や格差の拡大


そして、これらは、民主主義にとっては慢性の病気のように深刻な問題で、

放っておくと死に至る可能性があると述べられていました。

また、民主主義的なルールに従おうとしないとトランプ氏が、

大統領選挙という民主主義のシステムによって選ばれていることが、

まさに現代の民主主義の大きな問題であるとして、次のように述べられていました。


『独裁者はクーデターや暴力的な事件を通して権力を掌握することがかつては多かった。

 ただ、現代の独裁者は違います。銃声ではなく、選挙で権力の座に就く。

 最初は社会の抱える問題を打破してくれるとの期待を背負った人気者として、民主的に登場してくるのです。

 だが権力を握った後、メディアを含む対立相手の自由を奪うことなどによって、

 民主主義を侵食していくのが特徴です。』


さらに、民主主義を脅かす指導者にみられる特徴を、「4つのリトマス試験紙」として示されています。

その4つとは、①民主主義のルールを軽んじること、②対立相手の正当性を否定すること、

③暴力を許容・促進すること、④メディアを含む対立相手の市民的自由を奪おうとする姿勢


そのうえで、民主主義を担う有権者に必要な備えについて、次のように述べられていました。

『民主主義とは、スイッチを押すだけで自動で動く機械ではないのです。

 どんなに優れた憲法や仕組みがあったとしても、不断の努力が求められ、

 常にエネルギーを注ぎ込まなければならない。

 人々がしっかり政治について考え、語り合い、意見を表明することがまず大事です。

 何年かに一度だけ、選挙にさえ行けばそれで済む、のではないのです。

 そうした努力によって人々の不満や怒りをしっかりと政治の場に反映させることができ、

 変化し続けることができるのです。』


はぃ‥、そうですよね。

ジブラットさんがおっしゃっていることは、健全な民主主義にとって、至極当たり前のように思われます。

ですが、頭では理解していても、それをなかなか実行できないのが、私たち有権者なのかもしれません。

記事を読んで、ジブラットさんの著書を読んでみようと思ったのですが、

それより前に、積読状態にある本をなんとかしなければなりません‥‥。(トホホ)

責任と義務と‥

今日7日の朝日新聞一面コラム「折々のことば」は、作家・坂口安吾

『限度。学問とは、限度の発見にあるのだよ。』という言葉で、

いつものように、鷲田清一さんの次のような解説がありました。


原子爆弾という、人間の制御を超える装置を発明するのは学問ではない、

 「子供の遊び」だと作家は言う。おのれの限界をはみ出る「大ゲサ」な夢想にのぼせず、

 せいぜい数十年しか生きられない有限な個人として、

 みずから責任をとれるところでその義務を全うすること。そこに人の「戦い」がある。

 人はそれに勝てずとも、負けはしないと。論考「不良少年とキリスト」から。』


鷲田さんの解説のなかの

「せいぜい数十年しか生きられない有限な個人として、

みずから責任をとれるところでその義務を全うすること。そこに人の「戦い」がある。」

というのは、重みのある言葉ですね‥‥。


この解説を読んで、以前、この日記にも書いたことがある

浅田次郎さんの小説「壬生義士伝」に登場する、次の言葉を思い出しました。

『男なら男らしく生きなせえよ。潔く死ぬんじゃねえ、潔く生きるんだ。

 潔く生きるてえのは、てめえの分を全うするってこってす。

 てめえが今やらにゃならねえこと、てめえがやらにゃ誰もやらねえ、

 てめえにしかできねえことを、きっちりとやりとげなせえ。

 そうすりゃ誰だって、立派な男になれる。』


「みずから責任をとれるところでその義務を全うする」と

「潔く生きるてえのは、てめえの分を全うするってこってす」には、

どちらも同じような意味があるように思います。


ところで、マイペースで頑固な私の父は、ごくごく普通の技術畑サラリーマンだったけれど、

よき伴侶に恵まれて、そして、コツコツと真面目そのものに働いて、

私(一浪一留)と弟(二浪)の二人を、薄給ながら大学まで行かせてくれました。

今日、夕食の際に見た父は、確かに「立派な男」の顔をしていたような‥‥?

私の思い過ごしかしら‥??(苦笑)