昨日の続きです‥。
11月1日(水)の朝日新聞一面コラム「折々のことば」は、ロビン・G・コリングウッドの
「人が何かのものを描くのはそのものを見るためだ。」という「ことば」で、
いつものように鷲田清一さんの、次のような解説がありました。
『見ることは描くことの中で経験として成長してゆく。
見ている事物がどんなものであるかは、それを描いてしまうまでわからないと英国の哲学者は言う。
その立体的な形や空間的配置は身体の運動によってしか掴(つか)めないからだと。
風景一つ描くにも、画家は現場で丹念にスケッチする。やりながらでしか見えないものがあるのだ。
う~む、なるほど‥‥。「やりながらでしか見えないものがある」ですか‥。
含蓄に富んだ言葉だと思います。物語を紡ぐ行為もそうなのかしら?
ところで、10月29日(日)の同紙一面コラム「天声人語」は、
読書週間に関する内容でしたが、そこには次のようなことが書かれていました。
『‥‥買ったとて、すぐ読めるとは限らない。自宅では、寝床の足もとまで未読の山が迫っている。
一度読んだ本だって再読したい。以前とは違う発見があるはずだ。
でも20代から50代の今までに読んだ本を、同じ時間をかけて読み直すだけで、
わが一生はたぶん終わってしまう。ああ嘆かわしい。だが欲望が勝利するのだ。
古本市で4冊ほど求め、一つをめくっていたら、
買い過ぎを批判する哲学者ショーペンハウエルの言葉に目がとまった。
「書物を買い求めるのは結構なことであろう。
ただしついでにそれを読む時間も、買いもとめることができればである。」
やられた。まったく悩ましく、そして楽しいものである。読書というやつは。』
はぃ、私も今日、買い物帰りに立ち寄った書店で、たまたま目にとまった本を衝動買いしました。
欲望が勝利しましたが、積読本がまた一冊増えてしまいました‥‥。
追記
『読書について』(ショーペンハウアー、鈴木芳子訳:光文社古典新訳文庫)には、
次のようなことが書かれています。ご参考までに‥‥。
『本を買うとき、それを読む時間も一緒に買えたら、すばらしいことだろう。
だがたいてい本を買うと、その内容までわがものにしたような錯覚におちいる。』