昨日の続きです‥。
1月11日(木)の朝日新聞一面コラム「折々のことば」は、菅原和孝さんの
「わたしが行為してしまったことが、そのままわたしの感情なのである。」という「ことば」で、
いつものように鷲田清一さんの、次のような解説がありました。
『感情は、各人の内部にあって他人には窺い知れないものだといわれるが、
実際は身ぶりや身がまえとして周囲にまざまざと開示されていると、人類学者は言う。
私という存在の「奥底にあいた傷口から流れでる」この力を押し止めるのは至難のこと。
その意味で人が為すことはことごとく「取り返し」がつかないと考えれば、少し救われた気になると。
「感情の猿=人」から。』
はぃ、私も感情が正直に(?)顔に出るタイプで、ポーカーフェイスなんて至難の業です。
そういう意味では、「人が為すことはことごとく取り返しがつかない」というご指摘は、
確かに少し救われた気持ちにもなります‥‥。
そして、同日の同紙一面コラム「天声人語」は、八代亜紀さんの逝去を悼む内容で、
そこには次のようなことが書欠けていました。
『‥‥かねて「歌は誰かの心を表現する代弁者だ」と語っていた。
だからこそ「なみだ恋」や「雨の慕情」などの名曲に、多くの人が自分を重ね合わせていたに違いない。
八代さんが亡くなった。享年73。
都会の盛り場で、どこかの港町で、弔いの杯が傾けられていることだろう。
よけいな飾りはいらない。〈涙がポロリとこぼれたら/歌いだすのさ舟唄を〉』
歌は、私という存在の「奥底にあいた傷口から流れでる」感情を、開示してくれる代弁者なのですね‥‥。