昨日の続きです‥。
3月2日(土)の朝日新聞一面コラム「折々のことば」は、ロラン・バルトの
「贈られる物は中味ではなく、その箱であるかのようだ。」という「ことば」で、
いつものように鷲田清一さんの、次のような解説がありました。
『日本を訪れたフランスの批評家は、人々の贈答行為、とくにその包装に強い印象を受けた。
木や紙や紐などからなり、折り目、結び目もつけられて包装それ自体が一つの品になっている。
ささやかな中味とは不釣り合いな外装の重ね。
包みという空虚な記号のその豊饒さが,中味にふれる楽しみの時を引き延ばしつつ、世の秩序を暗に支える。
「記号の国」(石川美子訳)から。』
なるほど、日本の包装は外国の人から見ると、その「豊饒さ」が特殊なのですね。
包装といえば、アマゾンの過剰包装は、中味にふれる楽しみは同じだとしても、
「豊饒さ」とは真逆の価値観なのかしら‥?
追記
明日の高校の同期会を前にして、関西から友人が久しぶりに帰郷したので、
3年生の時の友人6人が集まって、旧交を温めました。卒業後50年が経過しても、やはり友人は友人です。
午後3時から午後6時まで、喫茶店で昔話に花を咲かせました。
明日の同期会も、どんな友人に再会できるか、とても楽しみにしています‥‥。