雨がしとしとと降る日が続いています。
「菜種梅雨」であり、桜の開花を促しせきたてる「催花雨(さいかう)」でもあります‥。
その「桜」について、今日の日経新聞一面コラム「春秋」には、西行の歌がいくつか引用されていました。
『「たぐひなき花をし枝に咲かすれば 桜に並ぶ木ぞなかりける」。
この歌の作者、西行は今で言う「桜推し」だった。
多くの作品を詠み、花といえば梅より桜を指し始めたのは西行からとの説もある。
「願はくは花の下にて春死なん その如月の望月のころ」と夢みた。
如月は旧暦2月、望月(満月)は15日ごろ。その願いどおり2月16日に亡くなった。
新暦に直すなら、年によって変わるがおおむね3月後半でまさに桜の季節だ。
今年はきょうがその日にあたるという。類いなき花が咲く中で眠りについたのか。
こんな歌もある。「梢(こずえ)打つ雨にしほれて散る花の 惜しき心を何にたとへん」‥‥』
「松岡正剛の千夜千冊」753夜を閲覧してみると、西行には桜の歌が230首あるそうで、
コラムで引用されている歌のほかに、次の歌が紹介されていました。
「花みればそのいはれとはなけれども 心のうちぞ苦しかりける」
そして松岡正剛先生は、この歌を次のように解説されていました。
『‥‥おそらく西行にとっての桜の心はこの一首の裡にある。
桜を見るだけで、べつだん理由などはっきりしているわけではないのに、
なんだか心の内が苦しくなってくる。そう詠んだ歌である。
その「いはれなき切実」こそが西行の花の奥にある。
西行にとって「惜しむ」とは、この「いはれなき切実」を唐突に思いつくことなのである。
それが花に結びつく。月に結びつく。花鳥風月と雪月花の面影がここに作動する。
なかで花こそは、あまりにも陽気で、あまりにも短命で、あまりにも唐突な、
人知を見捨てる「いはれなき切実」なのだ。‥‥』
なるほど、桜の心は「いはれなき切実」ですか‥。勉強になります。
ところで、「その如月の望月のころ」の今日は、「催花雨」のため
西行を偲んでの「望月(満月)」を見ることはできません‥‥。