昨日の続きです‥。
4月21日(金)の朝日新聞一面コラム「折々のことば」は、滝口悠生〈ゆうしょう〉さんの
「自分の書く言葉は、届けと思って届くより、自分から遠く離れたところで、
偶然のように届いてほしいと思う気持ちがある」という「ことば」で、
いつものように鷲田清一さんの、次のような解説がありました。
『人が遺(のこ)した日記を見つけ、知らずにいたかったと思うことがある。
逆に自分の言葉がいつか誰かに読まれることもあろう。
何かが言えるか言えないか、定かでないままに人は筆をとる。
だから誰に誰の言葉として届くのかを自分で決めたくないと、小説家は思う。
写真家・橋本一子との往復書簡「ひとりになること 花をおくるよ」から。』
う~む、なるほど‥‥。「定かでないままに人は筆をとる」ですか‥。
では、私がこの日記を書く意図や目的って何なんだろう? そう問われると、確かに定かではありません。
ところで、父が亡くなってから、パンを焼くトースターが故障し、続いてトイレの便座が故障しました。
母が亡くなった時も、突然、池の取水ポンプが全く動かなくなったことを思い出します。
なんだか不思議な力を感じます‥‥。